言葉の力
今年の２月、中央教育審議会は学習指導要領の改訂について、これまでのキャッチフレー
ズである「ゆとり」をやめて、教育全体の基礎として「言葉の力」を理念に据えることを
文科省に答申しました。前回掲載した意味不明の「チカラ」ではなく、そのものズバリの
「力」です。しかし、やはり言葉自体の力ではなく、言葉を使う力ということでしょう。
たとえば国語では、要約力の促進や古典の音読や暗記、数学・理科では、データの解釈、
仮説を立てて実験などで仮説を検証する、芸術では、感性を高め、思考・判断して表現す
る、というようなことが考えられているようです。
「仮説を立てて検証する」のと今の学習指導要領で言っている「問題を発見して解決す
る」のとでは、ほとんど同じ能力が必要だと私は思います。仮説を立てたり問題を発見す
るというのは、それ相当量の知識と経験があってできることです。
ですから、小学校～中学校前半くらいまでは知識の吸収にもっと力を入れるべきで、そ
れをおろそかにして、小学生に「仮説を立て検証させること」に時間を使い過ぎないよう
にしたいものです。「総合的な学習の時間」の轍を踏んではいけません。
数学は、言葉の意味を厳密に定義し、その言葉を正しく使って筋道に沿って説明する練
習の場であるはずです。にもかかわらず、たとえば、数学Ⅰに出てくる ｂ2－4ａｃ の
「判別式」という名前を使ってはいけないと、文科省は決めています。言葉を増やすと生
徒の負担になるというのです。「そんなバカな！」というのが私たちの率直な思いで、授
業では「判別式」を使っています。ものには名前があった方が便利に決まっています。
数学の言葉は、使う人によって感情的であったり残酷であったりすることはありません。
一般の言葉は、その点、使い方によって相手を傷つけたり、誤解を生じさせたりと、大変
使い方が難しいものです。赤ちゃんが自然に覚えるような言葉の習得方法だけでは、高度
な文明社会の一員としての生活は送れません。文明社会では、次世代へ言葉とともに先人
の知恵を伝授するには教育プログラムを作って組織的に行わなくてはならならないのです。
諸君も、それほど遠くない将来にはその役割を担わなければなりません。
「言葉の力」というキーワードでおしまいにならないように、また、前回の"ジャーナ
リスト宣言" ように言葉に責任を転嫁するのではなく、言葉を使う力を養うこと、更にい
えば、対面して声の調子や表情とともに会話をする能力を養っていかなければならないと
思います。
漢字の制限と英語教育
熟語を漢字とかなで書く、いわゆる「混ぜ書き」を問題視する声があります。たとえば、
小学校では「こっ折」「心ぱい」「せい長」など、新聞でも「ら致」「破たん」「覚せい
剤」「改ざん」「漏えい」などです。
こうする理由は、文科省の言い分は、習った漢字を積極的に使うためということですが、
これは、習わない漢字は使うなということと表裏一体です。各学年で習う漢字を厳密に指
導要領で決めてあるのだからそれに従えと受け取れます。
自分の名前も、まだ学校で習ってない漢字は使ってはいけないということをいう小学校
の先生がいるということを聞いたことがあります。これも「そんなバカな！」です。
新聞などは、読者の多くが読めない（であろう）漢字はかなにするということのようで
す。ところが、学校で混ぜ書きが増えてきてそのおかしさに気付いたのか、新聞は「拉致」
「破綻」「覚醒剤」「改竄」「漏洩」を使うようになってきました。何度も出てくるので、
読者も読めるようになったということでしょうか。
今、小学校での英語必修化に対する賛否が激しくぶつかっています。英語に親しんでお
く程度にしておくなら良いですが、文法的な厳格さを求めたり、「ワタシは何々します」
のような、普段日本語でも使わないような言い回しで訳させたりというようなことはさせ
ないでほしいと思います。日本語に訳さず、英語のまま意味が取れるようになるのが良い
のでしょうが、日本語訳をさせる場合には、少なくとも会話については、映画の字幕を作
るような感覚でやってほしいと思います。
自分の名前すら漢字制限する一方で、My name is ～ などと言わせようというのは、全
くナンセンス（nonsense＝ばかげた考え・行い）です。
ヘボン式と訓令式
英語の話のついでに、小学校で教えるローマ字は、英語の発音に合せてヘボン式にする
べきだと私は考えます。（※）
いま学校で教えているローマ字は訓令式といって、し＝si、ち＝ti、つ＝tu、ふ＝hu、
じ＝zi、じゃ＝zya、じゅ＝zyu、じょ＝zyo などと表記するやりかたです。それに対して、
ヘボン式というのは、それぞれ shi、chi、tsu、fu、ji、ja、ju、jo と綴ります。
駅名や地名のローマ字は、私の見る範囲ではすべてヘボン式です。ローマ字併記の目的
は、外国人にも読めるようにということです。ですから、英語を基準にすれば、ヘボン式
の表記が最も日本語に近い発音になるものと考えられます。
しかし、訓令式でｓｉを「し」と発音するよう教えておいて、中学校でｓｉｎｇを「シ
ング」と読むとダメだと言われてしまうわけですから、生徒にとっては理不尽なことです
し、これが原因で英語コンプレックスになったという人も多いのではいでしょうか。
（※）ヘボン：James Curtis Hepburn（米、1815～1911（明治44）、キリスト教宣教医）
1859（安政６）年に来日、神奈川成仏寺に居住。以後、３３年間日本に滞在。キリスト教の布教のた
めに自ら英和辞典「和英語林集成」を作った。1889（明治22）年、明治学院初代院長に就任。本当は
ヘップバーンであるが、当時の日本人が耳で聴いたとおりに発音を真似てヘボンとなり、本人も「平
文」と書いていた。オードリー・ヘップバーン（Audrey Hepburn，1929～1993）は、現代の日本人は
文字で読んでバーンにアクセントを置いて言うが、向こうでは通じない。本当は「ヘ」にアクセント
があり、ｐの音はほとんど聞こえないので、耳で聴くしかなかった当時の日本人の方が素直に発音し
ていたと言える。オードリー・ヘッボンと言えば通じるかも知れない。ベルギー生まれの彼女は、第
２次大戦中はオランダで反ナチスのレジスタンスの連絡役として活躍した。
訓令式の方がグローバルだと言う人もいます。たとえば machi は、フランスではマシ、
ドイツではマヒと読まれるが、mati なら欧米のどの国でも日本語のマチに近い発音で読
んでくれるだろうというわけです。ですから、こう主張する人は、自分の名刺のローマ字
は訓令式にしているといいます。つまり、TADASHI ではなく TADASI とやるわけです。
しかし、フランスでは HIROSHI はイロシ、ドイツでは SAKAE はザカエ、JAPAN はヤー
パンと読まれるのですから、訓令式にしたって無駄ということがわかります。
外国語は互いに英語を基本とするということは広く受け入れられている事ですから、英
語の発音を前提としてヘボン式で書いた方が、結局はグローバルだということになると、
私は思います。
５・１５事件とナチスの台頭
74年前、1932（昭和７）年５月15日（日）の夕方５時半頃、三上
尉を始めとする海軍・陸軍の軍人11名が首相官邸に押し入り、家族と夕食中の
を射殺しました。５・１５事件です。
ピストルをつきつけられた食事中の首相は、落ち着いて「話せば分かる」と言って軍人
らを客間へ導いたあと、山岸が「問答無用！ 撃て！」というのに応じて三上や黒岩
予備少尉が続いて首相を撃ちました。一行が去ったあと、介抱する家族に首相は「もう一
度あれらを呼んで来い。わかるように話してやる」と叫びましたが、翌16日明け方、息を
ひきとりました。
この事件では、犬養首相の他は、陸軍の西田
なぜ、"仲間" と思える陸軍軍人が襲われたのか、不思議に見えますが、実は、このクー
デターは海軍将校と民間の右翼が計画を立てたのですが、陸軍に声を掛けたとき、陸軍が
あまり乗り気でなかったのです。それで、その原因が西田にあるとみて、クーデターのつ
いでに襲ったということです。明治時代から続いている陸軍と海軍の不仲は無謀な戦争の
原因にもなっています。
クーデター（coup d'etat（仏語）＝武力などの非合法的手段で政権を奪取すること）
といっても、首相を殺したあと誰がどうするのかという具体策は考えられていなかったの
です。これは、４年後の1936（昭和11）年の２・２６事件でも同様です。その意味では、
テロといった方が正確かも知れません。
しかし、５・１５事件が「日本の政党政治の終わり」というキーワードで語られるよう
に、その後の日本の方向を決定づける役割を果たしたことは確かです。もう一度、２年生
で学んだ日本史を思い出してください。
1918(T 7) 第１次世界大戦終結
1923(T12) 9. 1 関東大震災 （４月、本校の前身の中学校開校）
1927(S 2) 3.15 片岡蔵相が渡辺銀行の倒産を議会で公言、各地で預金取付けが起こり、中小銀行の倒
産相次ぐ
1929(S 4)10.24 ニューヨークの証券取引所で株価大暴落、大恐慌に拡大
1930(S 5) 4.22 ロンドン海軍軍縮会議で条約調印
9 陸軍中佐橋本欣五郎ら、桜会を結成
11.14 浜口雄幸 首相、統帥権干犯問題により東京駅で狙撃され負傷
1931(S 6) 3 桜会など軍部クーデターによる宇垣内閣樹立計画発覚（３月事件）
4.13 浜口内閣総辞職、翌14日、第２次若槻 礼次郎内閣成立
6. 5 ドイツ、賠償支払い困難声明
9.18 柳条湖事件をキッカケに満州事変勃発
10.17 軍部内閣樹立のクーデター計画発覚、一斉検挙（１０月事件）
12.11 １０月事件の影響で、若槻内閣総辞職
12.13 犬飼毅内閣成立
1932(S 7) 2. 9 浜口内閣時に金輸出を解禁した井上準之助前大蔵大臣暗殺（血盟団事件）
3. 1 満州国建国
3. 5 財閥・三井の総帥・團琢磨 暗殺（血盟団事件）
4. 7 リットン調査団、満州事変を実地調査
5.15 陸海軍将校ら、首相官邸などを襲撃、犬飼首相を射殺（５・１５事件）
5.26 斉藤実 、挙国一致内閣を組閣（1936年の２・２６事件で殺害される）
7.30 ドイツでナチスが第１党に
8.22 内田外相、満州国承認の決意表明
9.15 満州国承認、日満議定書調印
11.21 国際連盟で松岡洋右 全権大使がリットン報告に反論
1933(S 8) 1.30 ドイツでヒトラー内閣成立
3. 4 フランクリン・ルーズベルト、米大統領に就任（～1945）
3.28 日本、国際連盟脱退
5.31 塘沽 停戦協定で万里の長城以南に非武装地帯設定
ロンドン海軍軍縮条約調印による海軍の不満は当然あるわけですが、経済的行き詰まりの中での財閥の成長、政党政治の腐敗も５・１５事件誘発の大きな原因です。
ヨーロッパにとっての軍縮には、もっと切実な理由があります。第１次大戦で航空機が
出現し、兵器の破壊力も段違いに大きくなり、ヨーロッパ全土の何もかもが破壊し尽くさ
れ、これからは安易に戦争という手段に訴える外交はダメだと悟ったのです。
一方日本は、第１次大戦では戦勝国の仲間に入り、しかも、直接の被害はなかったもの
ですから、ヨーロッパの感じていた軍縮の必要性を感じていなかったのかも知れません。
しかし、大戦直後から戦争による需要と、ヨーロッパの戦争の間の中国での稼ぎが急速に
落ち込み、日本は不景気になります。そこへ、関東大震災が起こり、片岡蔵相の失言で火
がついた金融恐慌、米国発の世界恐慌と "波状攻撃" にさらされます。
上の年表には、ドイツの様子を入れておきました。1931年６月の「賠償支払い困難声明」
とありますが、ドイツは第１次大戦の敗戦で、フランスを始めとするヨーロッパ各国に対
して課せられた巨額の賠償が払えないと "宣言" したのです。
不景気と賠償に押しつぶされたドイツを救ったのがヒトラーです。あのユダヤ人迫害が
なければ、ヒトラーはドイツ救国のヒーローであったという評価もあります。ヒトラーは、
アウトバーンや競技場の建設等の公共事業と軍拡によってドイツの経済を立て直し、ベル
リン・オリンピック（1936年）で強いドイツを世界に宣伝し、国民を引き付けたのです。
ヒトラーは、決してクーデターなどで政権を取ったのではなく、民主的手続きによって
総統になったのです。その点が、日本とドイツの戦争責任の考え方の決定的な違いの原因
があると思います。日本は、政治には国民は責任がないという感覚が、今でもあると思い
ます。だから日本には民主主義が育たないといわれる
そうした違いはありますが、日本もドイツも不景気が独裁体制を許したという共通点は
あります。それで、第２次大戦後は、莫大な賠償金を課すということはドイツに対しても
日本に対してもやらなかったのです。
20世紀末から21世紀にかけての日本のバブル崩壊後の不景気のときにも、強い指導者出現の待望論があり、小泉首相や東京の石原都知事は、そういう中で
非常に高い支持率を得て生まれたという見方もあります。 〟